皆さん、こんにちは。
世の中には、発声に書かれた書物が沢山ありますが、その割には声楽におけるメソードというのがいまいち定着していないのが現実です。
本当に正しい発声法というのが存在しているのであれば、それに則って正しい発声で歌う歌手が沢山出てきてくれても良いはずです。
でも現実は、決してそう簡単ではありません・・・。
というのは実は、正しい発声法を実際に行うのには、癖が全くないというのが前提になっているからです。しかし現実としてはオペラ歌手や声楽家は皆何らかの癖を持っています。
ましてやまだ勉強している学生の癖なんて、言葉は悪いですがなかなかひどいものですし、その癖の種類もそれこそ人それぞれです。その人それぞれの癖を取り除かない事には、いくら正しい発声法を説いたところで効果が出てきません。発声法で紹介された練習もその人の癖によっては全く逆効果になる事もあるのです。
この癖というのは本当に厄介です。これは実際にその人の歌い方を聴いて、それに対して的確なアドバイス、練習法を提示して対処するしか方法はありません。個人的には正しい発声法の本を書くよりも、発声における癖とその対処法についての本を書いた方が面白いかもしれないと思うのですが・・まあ、癖の種類も度合いも人それぞれですから、癖をひとまとめにして一般的な事を書くのはそうは簡単ではありませんね。
でもそんな事ばかり言っていても始まりませんから、今回は声楽家にとって代表的な癖の一つとその対処方を紹介したいと思います。
もくじ
声楽家にとって一番の大敵は舌
まず結論から言いますと、声楽家にとって一番の大敵は舌です。
舌というのは非常に大きな筋肉でできています。そしてあらゆる言語に大きな関わりを持っています。どんな言葉であれ、母音、そして子音を形作るのは舌です。私たちがしゃべるときは、この舌が非常にアクティブに動き回るわけです。当然きれいな発音をするためにもこの舌の働きが重要になってきます。
しかし一方で歌う時にはこの舌ができるだけ関与しない事が大事になります。というのも舌が動けば動くほど、喉の奥のスペースが邪魔されて狭くなってしまうからです。
オペラ歌手のような豊かで声量のある声を出すためには、できるだけこの舌が邪魔しない事が肝心です。でも言葉をしゃべる時にはアクティブな舌をできるだけアクティブでない状態にするのは結構難しいです。
でもまずは順序立てて見ていきましょう。最初に舌と言語の関係、それから舌と発声の関係に分けてみてみましょう。
舌と言葉の関係
どんな言語であれ、舌というのはそれに大きく関わってきます。言葉が変われば舌の動き方というのも結構違ってきます。まずは私たちの日本語、それからイタリア語やドイツ語、英語などのヨーロッパ系の言葉に分けてその関係と大まかな違いを見ていきましょう。
日本語と舌の関係。
まずは私たちの日本語と舌の関係についてみていきましょう。
みなさんは普段日本語を話していて舌の動きを意識する事ってありますか?江戸っ子がべらんめえ口調で巻き舌をする時とかは、舌の事を意識しやすいかもしれませんが、普段の生活で舌の動きを意識する事ってあまりないと思います。
それもそのはず、日本語というのは舌の動きが非常に少ない原語なんです。これは私があくまで様々な言語で歌う上で経験的に学んだものですから、日本語の専門家が何と言うかは分かりません。あくまで私の経験に基づいた表現です。
まず日本語の母音ですが、これは舌の形があんまり変わる事がありません。アナウンサーや声優の発音の動画を見てみれば一目瞭然ですが、日本語というのは舌をあまり動かさずに顎や口の形を変える事で母音を変えているのです。
ちょっと「あ・い・う・え・お」と鏡の前で言ってみてください。おそらく口の周りの筋肉と顎を動かすことでそれらの母音の形を変えていると思います。「あ」から「い」になると顎が閉じて口が横に広く動きますね。日本人というのは口の中の空間を開けたり閉じたりする事で母音を変えているのです。もちろんその時に舌の形も微妙に変わっていますが、それは後から説明するヨーロッパ系の言語の動きとは大きく異なっています。
子音に関しても日本語ではRとLの発音の区別がありませんし、さらに「し」と「ひ」の区別がついていなくても(ひゃっくりとしゃっくり)問題なく意味が通じてしまいます。これは舌がそれほど重要な役割を果たしてはいない事を意味しています。
あくまで比較してと言う事ですが、日本語においては舌の動きというのは当然ありますが、実はそれほど活発ではありません。これは洞穴の中で熊が時々寝返りを打ちながら丸まって冬眠しているみたいなもんです。
まずはぜひともこのイメージを持ってください。
ヨーロッパ系の言語と舌の関係
では今度はヨーロッパの言語と舌の関係を見ていきましょう。
英語、ドイツ語、イタリア語など様々な言葉がありますが、ヨーロッパの言語では舌の動きが非常に活発になります。
母音は「a・i・u・e・o」以外にも様々なものがありますが、それを形作るのは口の形ではなくて基本的に舌の位置です。口(顎)の形は変えずに舌の位置を変える事でこの母音を変化させるのです。
これが意味する事は「あ・い・う・え・お」と「a・i・u・e・o」は同じように見えても実は大きく異なる母音だという事です。舌や顎の位置がまるで異なっているためです。
日本人がいくら頑張って英語の発音を練習しても、なかなかそれっぽく聴こえないというのは良く聞く話ですが、実はその原因は母音にあります。母音が日本語の「あ・い・う・え・お」である限り、いくら練習しても日本語らしさが抜けることはありません。
きちんとした発音をしようと思ったら、子音だけではなくて「a・i・u・e・o」の発音も学ぶ必要があるという事ですね。なるほど。
子音についてもヨーロッパの言語は舌の働きが日本語よりもさらに重要になります。日本人には区別がつきにくいRとLはヨーロッパの言語ではまったく別な発音として認識されますし、それ以外にも日本語にはない発音が沢山あります。それらを明確に区別するためには当然舌を正しく使う必要があるわけです。
日本語にない子音の発音は、日本人には難しいですね。発音コーナーにでてくるのはだいたいこのパターンですね。
日本語はオペラに不向き
さて、日本語とヨーロッパの言葉と舌の関係を見てきましたが、実は日本人には日本語の持つ舌の動きが大きな問題となって付きまといます。
先ほど、日本語の時の舌は洞穴の中で熊が丸まっているようなものだと言いましたが、これは舌が後ろの方で丸まってしまい、私たちが歌う時に必要な喉の奥のスペースを狭くしてしまっているという事です。日本語のアナウンサーのしゃべり方を聴いてみれば、日本語がいかに狭い言語であるかはすぐにわかると思いますが、それは空間が狭いためです。
日本人の女性アナウンサーの声って割とみんな高いよね。逆にアメリカとかのアナウンサーの声って女性でも結構低いよ。これもその辺のスペースが関係していそうだな。
これはあくまで言語の特徴ですから、良し悪しを言っているわけではないんですが、いざオペラとなるとそうも言っていられません。歌う時にはできるだけ沢山のスペースが必要だからです。
私たちは歌う時にはまずこの洞穴の奥に眠っている熊をどかさなければなりません。しかしこの熊はなかなか動いてくれません。普段から動いていないので、丸まる肥えて動きが悪いです。これを動かさない以上、歌うために必要なスペースが確保できない。
これはオペラや声楽を歌う上では文字通り大きな障害となります。そしてこれは私たち日本人には一生ついて回ります。
まずはこの舌の動きをもう少し活発にしてあげる必要があります。声楽をやる上ではとにかくドイツ語やイタリア語の歌を沢山練習していきますから、それらを練習していくうちに、舌の動きも徐々に活発になります。
そして丸まると肥えた熊から、ダイエットに成功して活発に動くイタチぐらいになります。
イタチぐらいになれば、洞穴の中で、活発に動き回る事が可能です。こうなるともう少し喉の奥にスペースが確保しやすくなり、外国語で歌っても、だんだんそれっぽく聴こえるようになってきます。
しかし日本語で沢山しゃべれば喋るほど、イタチはだんだん熊のようになってしまいます。私たち日本人は一生この問題と戦っていかなければならないのです。
活発になっても邪魔は邪魔。
さて、沢山練習して、なんとかイタチぐらいにする事に成功したとしましょう。これでようやくヨーロッパ人と同じ土俵で勝負できるようになります。
じゃあそれで終わりかというとそうではないんです。実はいくらイタチになったからといっても、それが動き回って通りを邪魔している事には変わりありません。
オペラを歌うためにはそれに邪魔されない事が肝心です。イタチが勝手に後ろの方で丸まってしまわないようにしっかりと調教しなければならないというわけです。
オペラを歌う時には母音を発する位置が話すときとは異なる
さて「あ・い・う・え・お」と「a・i・u・e・o」は基本的に異なる母音だと言いましたが、日本語の母音が、口の形を変えて母音を変えるのに対して、ヨーロッパ系の言語では舌の高さを動かして母音を変える事にはすでに触れました。
たとえば、「e」の時は舌はわりと平らな位置をキープしていますが、「i」や「u」の時は舌の後ろが高い山を作ります。舌の動きに連動する形で喉の位置も多少変わります。例えば「i」や「u」の時は喉が比較的下がった一にあります。
しかし母音が変わるたびに舌の位置や喉の位置がいちいち変わってしまうという事は、その都度響きのスペースが変わってしまうという事になります。スペースが変わるという事は響きの量が常に変化するという事です。
実はこれでは完全なるレガートで歌う事はできません。オペラを歌う上では、活発に動き回る舌ができるだけ動き回らないようにしなければいけないのです。
具体的に言うと、舌の後ろが常に平らな状態をキープしなければなりません。喉の奥のスペースをできるだけ広く一定に保つためです。
しかしこれは舌の位置で母音を変えるというヨーロッパ系の言語と一見矛盾するように感じますね。
これが意味することは、歌う時の母音は、いくらイタリア語やドイツ語で歌うといっても話すときの母音とはまた違うという事です。
つまりオペラや声楽を学ぶ人は、どこの国で生まれようが、歌う時の母音の正しい位置というのは新たに学ばなければならないのです。
程度の差こそあれ、声楽の観点から見れば、どの国の言葉にも癖があるってことだね。
具体的にどのような母音が正しいのか、というとこれは喉を下げる方法の中でも触れていますが、まずは首の筋肉を使って喉をしっかり下げることを覚えなければなりません。そうすると喉の奥にスペースができます。そして舌をリラックスさせて平らに保つ事でそのスペースが邪魔されないようにするのです。
私たちが音の高さを変えようとしたり、母音を変えようとするたびに、この舌が奥に引っこみたがります。それは普段そのようにして喋っているのである意味当然の事です。しかし歌う時はできるだけそうさせないように練習していく必要があるのです。
このようにしてできた空間から発せられた母音は話すときの母音とははっきりと異なります。繰り返しになりますが、私たちはこのような歌うために必要な母音を作るスペースというものを一からしっかりと作り上げていかなければならないのです。
舌を引っ張り出して練習!
ではどのようにして舌が関与しないようにすれば良いのでしょうか?練習方法は簡単です。舌をハンカチタオルでつかんで引っ張り出せばよいのです。舌をめい一杯引っ張ると、舌は当然ながら平になりますから喉の奥にスペースが確保しやすくなります。
一方で舌を思いっきり出すと喉も上がってしまいます。これは舌根と喉頭がつながっているためです。試しに鏡の前で思いっきり舌を出して自分の喉仏(女性は分かりづらいですが・・)がどう動くか見てみてください。きっと上に上がると思います。
なのでこうした状態で首の筋肉を使って喉頭が上がらないように少しずつ訓練するわけです。
舌を引っ張っていると舌根で喉を押し下げる事が実質上不可能になりますから、喉を下げるのに本当に必要な首の筋肉だけを鍛える事ができるというメリットもあります。
このようにして訓練する事で、舌がまったく関与しないで歌うという事を筋肉に覚えさせることができます。これは今まで話す事に慣れた筋肉にまったく違う動きを上書きしていく作業になりますので、忍耐が必要です。
この方法は私の現在のトレーナーの師匠であるヨーゼフ・メッテルニヒというバリトン歌手がイタリアで修業した時に学んだ方法でもあります。メッテルニヒは数か月間も舌をハンカチで引っ張ったまま歌う訓練をしたとのことですが、私もかれこれ2年以上その方法で練習しています。最初の頃は舌を引っ張りすぎて舌の裏側が切れそうになりましたが、そういえば最近はそんなことはなくなりましたね。
最初のうちは、舌を引っ張って声を出しても、自分が想像するような良い声は出ませんが、忍耐強く続ける事で声帯が正しい閉じ方をするようになってきます。
おわりに
さて、歌う時、舌がいかに関与しないようにするかが重要という事について話しましたが、私たちが話をするときは、どんな言語であれ、この舌が大いに動き回っています。それはある意味私たちにとっては自然な動きです。
しかし歌う時はこれが邪魔になってしまう。普段自然にしている動作が邪魔になってしまうわけですから、これほど厄介な事はありませんね。
なのでこうした舌の悪影響を受けてしまう歌手は非常に多いです。ある歌手を聴いてその歌手の出身国を特定できる場合は、その言語の癖が大きく関係しているという事を意味します。
私たち日本人はとにかく、舌の動きが鈍く、空間を狭くしてしまいがちなので、まずはそれを取り除き、動きを良くする必要があります。そうしないと外国語の正しい発音はできません。そしてそれと同時に、舌が関与しなくても歌えるように、正しい筋肉を使って歌う方法を学んでいかなければなりません。
長い道のりですが、こうした癖を取り除かない限り、いくら練習してもこれまでの癖がどんどん強化されてしまうだけです。そう意味では最近世の中でよく言われる一万時間の法則というのはまったく当てはまりません。
正しい発声への第1歩は、そうした癖を取り除くことが本当に重要です!それが出来て初めて本当に必要な筋肉を鍛えていくことが可能となるのです。その癖の中でも代表的なものが私達の舌であること、そしてこれは普段の話し方の悪影響を受けやすいので、一生注意しなければならない事はぜひとも覚えてもらいたい所です。
舌とスペースの関係は喉の下げ方の話でも出てきましたね。覚えていますよ。