【作曲家紹介⑤】恋しているならシューマン!シューマンの魅力とおすすめの名曲を紹介!

皆さんこんにちは。車田和寿です。皆さんはシューマンといった何を最初に思い浮かべますか?トロイメライ、献呈、ピアノコンチェルトなど沢山の名曲を作曲したシューマンですが、私はシューマンというとという文字がが真っ先に思い浮かびます。

今回は作曲家紹介第5回目という事でシューマンの音楽の魅力に迫ります。

まずはいつものようにシューマンとはどんな人物なのか、それからシューマンのおすすめの名曲、そして最後にシューマンの音楽の魅力についてお話しましょう。

シューマンってどんな人物

シューマンは音楽と文学の才能に恵まれた子供!

Robert Schumann

ロベルト・シューマン(Robert Schumann)は1810年にドイツ東部、ザクセン州にあるツヴィッカウという街で生まれました。

シューマンのお父さんであるアウグストは、書店、それから出版業を営んでおり、そうした環境で生まれたシューマンは音楽家の家庭に生まれたベートーベンやモーツァルトとはかなりバックグラウンドが異なりますね。

しかし、そんなシューマンですが、若いころから学校で作曲をして演奏してみたりと、音楽的な才能を表します。そして注目すべきがそれと同じぐらいの才能を文学の方面でも発揮したという事です。

シューマンの生家

実際にシューマンは13歳の時に、お父さんが編集に携わる出版物に記事を書いたり、さらに自分で編集した詩集に自身の詩を載せたりもしています。

これは大作曲家シューマンを知る上では、結構大事なエピソードとなっています。というのもシューマンは後に詩人のハイネと出会いますが、そのハイネの詩に素晴らしい音楽をつけた歌曲を沢山作曲する事になるからです。まさにそうした歌曲の誕生の背景には、このような文学的な才能というのが関係しています。ちなみにシューマンは自分の事を音の詩人と表現している点も非常に興味深いですね。

人物②ピアニストとしての夢を断念

シューマンは音楽と文学の両方でその才能を発揮しましたが、まずはライプツィヒとハイデルブルクの大学で法学を勉強する事になります。ただ本人はこの勉強にはほとんど乗り気ではなく、さぼってばかりです。この頃には飲酒癖もあり、さらに忘備録をつける習慣もこのころから始まります。

大学では法学を学んでいたシューマンですが、この頃にシューベルトの「魔王」に魅せられたりと、徐々に音楽にのめりこんでいきます。

この頃シューマンは、作曲家のゴットロープ・ヴィーデバインに自分の楽譜を送って批評をしてもらうように頼んでいます。その時シューマンは自分の事を、「和声楽や通奏低音の達人でもなければ、対位法の大家でもありませんが、純粋にあるがままに天性に導かれているものです。」と書いています。

シューマンは自分を“天性に導かれし者”と書いていますが、自分の才能を確信していた事は間違いなさそうですね。

そしてちょうどこの頃、ピアノの先生としてフリードリヒ・ヴィークに出会います。さらにヴィークの所で、後で結婚する事になる当時9歳だったクララとも出会う事になります。

9歳のクララ

シューマンはこの頃法学の勉強をやめて音楽の勉強に専念する許可を親にもらおうとしていますが、その時このピアノの先生であったヴィークは「これから一生懸命練習すれば3年以内には一流のピアニストになれる。だからまずは半年間チャンスをやってはどうか」とシューマンの親を説得する手助けもしています。

そうして毎日ピアノの練習にあけくれたシューマンですが、なんとこの頃不幸にも右手の指を壊してしまいます。一説によると、指を鍛えるために使用した機械のせいだったともされていますが、実はもともと右手の人差し指と中指の力が弱く、それは服用していた薬の副作用ではないかとも言われています。

いずれにせよこれによりシューマンはピアニストになる事を諦め、作曲家としての未来に集中する事になります。

人物③批評家としての活動

音楽家としては作曲家になる事に集中したシューマンですが、活躍したのは実は作曲家としてだけではありません。

シューマンに文学の才能があった事にはすでに触れましたが、実はシューマンは24歳ごろにNeue Zeitschrift für Musik(音楽のための新しい雑誌)というタイトルの雑誌を作り、その雑誌の編集者、記者として活動しているのです。

Neue Zeitschrift für Musik

シューマンはその中で「ダヴィッド同盟」架空の団体を作り上げます。この団体は古い芸術に対して新しいものを創作するために戦うと言うコンセプトを持った団体になりますが、この団体の主役として登場するのがフロレスタン、そしてオイゼビウスという二人の人物になります

シューマンは、この二人を自分の小説に登場させたり、またその名前をペンネームとして使用して批評を書くことなります。

この雑誌を立ち上げた時に作曲したピアノ曲である「ダヴィッド同盟舞曲」「謝肉祭」はシューマンの代表作として知られますが、シューマンはその中でフロレスタンやオイゼビウスを登場させており、彼の創作にはこうしたシューマンの批評家としての活動も深く関わっているのです。

人物④クララとの結婚

シューマンはピアノ教師ヴィークの娘であり、天才ピアニストとしてヨーロッパで高い名声を得ていたクララに恋をします。

この二人は1835年の11月に初めて口づけを交わしますが、シューマンはその2年後に父親のヴィークに結婚の申し込みをします。

15歳のクララ

しかしヴィークは激しくこれに反対したために、クララは父親の同意なしで結婚を認めてもらえるように裁判所に訴えるようになります。

シューマンは裁判で有利になるように、イェナ大学から学位を受けますが、この二人の結婚はようやく1840年に実現します。

人物⑤大作曲家へ:歌の年から管弦楽、室内楽、合唱の年へ

シューマンはクララと結婚するまで、ほとんどをピアノ曲の作曲に費やしますが、クララと結婚した1840年に、「ミルテの花 Op.25」、ハイネの詩に作曲した「リーダークライスOp.24」、アイヒェンドルフの詩に作曲した「リーダークライスOp.39」、それからハイネの詩に作曲した「詩人の恋 Op.48」など沢山の歌曲を作曲します。それがこの結婚、そして恋、もしくは愛と関係していることは疑いがないでしょう。どれも非常に素晴らしいばかりです。

沢山の歌曲を作曲した事から、この年は歌の年と呼ばれています。

そしてシューマンはその次の年には、交響曲「春」をはじめとして管弦楽作品の作曲に取り組み、大作曲家の仲間入りを果たします。さらにその年の後半には室内楽、そしてその次の年には合唱曲の作曲を中心し行い、作曲家としての可能性をどんどん開花させていきます。

このようにクララとの結婚を境にピアノの作曲家から大作曲家へと仲間入りしたシューマンなのですが、実はシューマンにはその人生で幾度となく病気に苦しめられる事になります。

人物⑥シューマンの病気と自殺未遂

シューマンの病気は精神的なもので、大学生の頃から鬱に悩まされます。この病気の説には脳腫瘍や統合失調症など、いくつもの仮説がありますが、様々な症状を総合的に判断すると、大学生時代に梅毒に感染してしまったためではないか、と言われています。

シューマンはすでにライプツィヒ大学で法学を勉強していた頃には自分の状態に自覚しており、いつか自分が気が狂うのではないかという心配を口にしています。22歳ごろには、義理の姉が亡くなったのをきっかけに鬱状態になり、5階にある自宅から飛び降り自殺しようとします。シューマンはこの後でそうした衝動を防ぐために、同じアパートの2階に引っ越しています。

クララとの結婚後シューマンはドレスデンに引っ越しますが、そこでも病状は悪化し次第に幻聴を聴くことになります。

シューマンは40歳になる1850年にデュッセルドルフの市の音楽監督に就任しますが、その前にはこのデュッセルドルフに精神病院があるという理由でこのオファーを受けることを躊躇していたくらいです。シューマンはうつ状態に加えて、やっぱり自分が狂ってしまうのはないかという恐怖心とも戦っていました。

そんなシューマンが40歳を過ぎてからの重要な出来事の一つは、若きブラームスと出会ったという事でしょう。シューマンはこの若きブラームスの才能をしっかりと見抜き、将来有望な音楽家として紹介もしています。

シューマンが書いたブラームスの批評

しかし、シューマンの状態は悪くなる一方でついには1854年に自ら精神病院に行くこと訴えますが、クララとドクターににベッドに戻るように説得されてしまいます。そしてその翌朝シューマンはライン川に入って自殺未遂をします。

デュッセルドルフとライン川

その後でシューマンはベートーベンの出身地であるボンの近くにあるエンデ二ヒの病院に入院する事になりますが、亡くなるまでの2年半をそこで過ごすこととなります。この間、妻のクララはシューマンが興奮するからという理由で面会を禁止されていましたが、ブラームスはシューマンと何度か面会を許されています。

結局クララが夫に会う事が許されたのは、亡くなる一日前の事でした。

大作曲家として知られるシューマンの人生はこのようにして幕を閉じる事となります。

おすすめの名曲

さて、シューマンという人物を見てきましたが、さっそくおすすめの名曲を紹介しましょう。

シューマンは大作曲家という名に相応しく、だいたいどの分野でも素晴らしい作品を残していますが、私が特に素晴らしいと思うのが、ピアノ曲、それから歌曲です。

というわけで最初のおすすめの名曲はピアノ曲から選んでみました。シューマンのピアノ曲には「子供の情景 Op.15」「ダヴィッド同盟舞曲 Op.6

「クライスレリアーナ Op.16」など素晴らしいものが沢山ありますが、今回は「謝肉祭Op.9」を選んでみました。

名曲① 謝肉祭 Op.9

先ほど、批評家として活動していたシューマンが「ダヴィッド同盟」という架空の団体を作って活動していた話に触れましたが、そうした時期に作曲したのがこの「謝肉祭」になります。

この謝肉祭というのはカーニバルの事ですが、仮面舞踏会がテーマになっており、シューマンはこの曲の中でピエロハルレキン、それから自らがペンネームとして使用していたオイゼビウスフロレスタン、さらには将来の妻クララ(キアリーナ)や当時の恋人のエルネスティーネ(エストレラ)、さらにはショパンパガニーニといった人物を題名につけて登場させています。文学的な才能があったシューマンが作ろうとした世界観というのが良く表れた曲となっています。

またこの曲には「4つの音符による面白い情景という副題がついていますが、これは実らなかった恋の相手のエルネスティーネ・フォン・フリッケンの出身地であるアッシュ(Asch)のアルファベット4文字に基づいており、ほとんどの曲がこの音の組み合わせが使用されています。ちなみにこのASCHの四つの音はシューマン(Schumann)の名前にも入っており、こういう所にもシューマンの創作意欲が良く表れていますね。

そんなことから、今回は蘊蓄が長くなってしまいましたが、このシューマンの謝肉祭を最初のおすすめとして紹介します。

ASCH アッシュ

ASCH(A-Es-C-H)は日本のドレミファソラシドに言い換えると、ラ、ミ♭、ド、シとなる。

名曲② 詩人の恋 Op.48

それではおすすめの第2曲にいきましょう。おすすめの名曲第2曲目はもちろん歌曲から選びました。

シューマンは長い争いを経て1840年にようやくクララと結婚しますが、その年にダムが壊れたかのような勢いで歌曲を沢山作曲します。これは本当に名曲揃いです。

シューマンはこの年120曲ぐらいの作品をいっきに書き上げましたが、中でも詩人ハイネの詩に作曲した曲は特に名曲揃いとなっています。

その中から選んだのが歌曲集「詩人の恋」です。

この歌曲集は全部で16曲の歌曲からできている歌曲集になります。ざっくりとこの曲の特徴を説明しますと、この曲は、その中で恋する男の心そしてその恋に破れた男の怒りや恨み、そして悲しみ、皮肉など様々な心情が歌とピアノの両方でが描かれているのが特徴です。シューマンはとにかくハイネの詩の世界の魅力をものすごく感じ取ってそれを歌とピアノの両方で表現しています。

ドイツ歌曲をというジャンルを芸術の域に引き上げたのはなんといってもシューベルトですが、シューマンではピアノの伴奏がより重要な役割を担うようになり、時には旋律を歌とピアノが分け合ったりと、単なる伴奏ではなくて、非常に濃密な音楽が繰り広げられます。特にシューマンは歌い終わった後のピアノの後奏でもって言葉に書かれなかった詩の世界観というのを表現しています。これはすごいです。

詩人の恋は、作曲家紹介としてだけではなく、後で単独でも取り上げたい傑作となっていますが、とにかく素晴らしいですからぜひ聞いてみてください!

それではおすすめの3曲目にいきましょう。

名曲③ 交響曲第1番変ロ長調「春」Op.38

ピアノ、歌曲と作曲したシューマンはその後で交響曲を作曲することで大作曲家の仲間入りをします。今回選んだのは管弦楽の年に作曲される事となった交響曲第1番「春」です。

クララとの結婚で歌曲の才能を一気に開花させたシューマンですが、この時期創作意欲に溢れていたことは疑いがありません。シューマンはこの交響曲に「春」と名付けますが、なんと最初のスケッチがたった4日間で完成しています。

そしてこの作品が完成した後でシューマンは日記に「わたくしは、この交響曲のおかげで多くの幸福な時間を過ごすができた。こんな大きな曲をこれほどやすやすと、これほど短い時間に首尾よく書き上げることができて、良き例に感謝することしきりである。」と書いているのです。なお、初演はライプツィヒでメンデルスゾーンの指揮により行われました。

さて、この曲ですが、シューマンが幸福な時間を過ごしたと言っているのように、非常に大きな希望に溢れた曲となっています。

その希望を象徴するのが、昇る三度による冒頭のテーマです。この曲の出だしはドレミという昇る三度の音型で書かれています。

シューマン交響曲第1番の冒頭

ちょっと脱線しますが、実はこの昇る三度の音型というのは希望を表しています。ベートーベンの時にも希望に触れましたが、例えばベートーベンの交響曲第5番の運命の第2楽章ではこのドレミが希望として出てきます。それからシューベルトの交響曲第9番の冒頭のテーマも同じくドレミの希望から始まります。

ベートーベン交響曲第5番第2楽章

そしてシューマンがこの春で使用したのもこの希望の音型でした。

実は私がこの話を最初に聴いたのはもう20年以上も前の事になります。私はその時日本の音楽大学で学生をしていましたが、そこでシューマン研究家である前田昭雄先生の特別講義を楽しみにして受けていました。その一つに希望をテーマにした講義があったのですがその時に前田先生がおっしゃっていた言葉が“昇る三度は希望の三度”という言葉です。

私はその時に聞いた、この“昇る三度は希望の三度”という言葉を20年がすぎた今でも覚えています。なので、その言葉を皆さんにも紹介しましょう。“昇る三度は希望の三度”です!!

この交響曲の出だしはミミミミドレミという昇る三度始まりますが、なんと4楽章ではそれでは十分ではなかったのか、ドレミファソラシドと3度から8度へと希望が上昇していきます。

第4楽章の冒頭

「春」という題名にふさわしく、希望に満ちた素晴らしい曲ですからみなさんもぜひ聴いてみてください。

シューマンの音楽のすばらしさについて

それではシューマンの素晴らしさについて話しましょう。シューマンと言う作曲家はこれまで紹介してきた作曲家とは時代的には異なっています。バッハはバロック時代の作曲家、それからモーツァルト、ベートーベン、そしてシューベルトは古典派の作曲家として紹介してきました。

でも今回紹介したシューマンはそういう時代とは異なりロマン派という時代に分類される作曲家です。

ロマン派というのは、「より多くの感情を表現した」みたいな事をいわれる事もありますが、それは大きな誤解です。感情の強さという点においてはロマン派だろうがバロックだろうが、差はありません。それは音楽というのがそもそも感情を表すものだからです。

違うのはあくまでスタイル(様式)です。音楽を表現するのに古典派が用いていた表現方法を必要としなくなったのがロマン派なのです。

そして、それを代表する一人がシューマンになります。シューベルトの時代まではピアノ曲と言えば、ソナタなどの形式に番号が付けられているだけでした。でもシューマンの時代には、曲一つ一つに名前が付けられるようになります

例えばピアノ曲一つをとっても「トロイメライ(夢)」、というタイトルが付けられたりするわけです。今回紹介した「謝肉祭」にも、曲一つ一つにフロレスタン、とかオイゼビウスとか言った名前が付いています。自分がその音楽を書く時に得た着想というのを形式にとらわれずに表現しようとしています。これがシューマンを始めこのロマン派と呼ばれる時代の作曲家の特徴になります。

ただ、このシューマンの魅力を一言で説明するのは非常に難しいです。シューマンの曲というのは希望のベートーベンのようにその性格がはっきりとはしていません。

これはシューマンの精神状態とも関係あるでしょうが、曲の中には、精神的に張り詰められた、ぎりぎりで非常に危ない橋を渡っているんじゃないかというような、緊張感じさせる音楽もありますし、中には、いったいどこに向かおうとしているのかがはっきりとしないような不安定な音楽というのも結構あります。しかしこのようなシューマンの心理を表した音楽というのが、やたらと私達の人生にマッチする瞬間というのがあります。

それにいろいろとありますが、その中の一つを紹介しましょう。それがです。愛に置き換えても良いです。

シューマンの音楽はこの恋心というのを非常に良く表しているのです。

シューマンのメロディーというのはとにかく美しいですが、それがシューマン独特の不安定さとあいまって恋する感情を絶妙に表しています。それが良く表れているのが、例えばハイネの詩に作曲された歌曲になります。先ほど「詩人の恋」を紹介しましたが、シューマンはそうした歌曲の中で、恋に揺れる、不安定な男の心というのを失恋まで含めて非常に良く音楽で表現しています

私も大学1年生の時に妻と付き合い始めた頃にはとにかく良くシューマンを聴いていました。まあそういう思い出も含めて、シューマンを聴くと、そうした甘く切ない思いが目の前にリアルに再現されます。

もちろん、これはシューマンの魅力の一つでしかありませんが、こんな魅力にあふれたシューマン、ぜひ聴いてみてください!

おわりに

今回は作曲家紹介第5回目という事でシューマンを紹介しました。

こちらの記事の解説はYoutube動画でも見れますのでそちらも合わせてご覧ください。

それは、また次回お会いしましょう。


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