みなさん、こんにちは。
今日の作曲家紹介では、オーストリアの作曲家、グスタフ・マーラーを取り上げます。
マーラーは当時指揮者としても活躍した事で知られていますが、その人生において9つの交響曲を作曲し、さらに管弦楽伴奏つきの歌曲を作った事で、ドイツの伝統を受け継ぐ最後の偉大な作曲家として知られています。
そんな彼の業績はなんといっても交響曲というジャンルに再び活力をもたらしたことです。交響曲に積極的に歌を取り入れ、さらに音楽の構造、それからオーケストラの表現手段を拡大するために斬新な楽器編成方を作り上げました。
また当時ウィーン宮廷歌劇場で彼が作り上げた体制は、長い間にわたって上演、演奏のスタイルになっています。
今日はこんなマーラーの人生、それから名曲と音楽の魅力を交響曲第1番と歌曲「さすらう若人の歌」に絞ってみていきたいと思いますので、ぜひ最後までご覧ください!
もくじ
人物①少年時代
マーラーはブランデー製造所と居酒屋を営むユダヤ人の両親の下、1860年にオーストリアのイーグラウという街で生まれました。
イーグラウという街は今ではチェコになりますが、当時そこでは軍楽、それから流行歌、民謡、それからクラシックなど、様々な音楽が響いており、こうした音楽が後のマーラーの大きな土台となっています。
少年マーラーはたちまちピアニストとしての才能を発揮し、1870年、10歳にして最初の公開演奏会を開きました。
そして、この才能が、地元の農場経営者の目に留まる事になります。この農場経営者はマーラーのお父さんにウィーンで音楽の勉強をする事をしきりに勧めます。
そしてその結果1875年の9月にマーラーはウィーン音楽院への入学を許可される事になります。
音楽院でのマーラーは76年と77年にコンクールで優秀な成績を収め、ピアニストとしての将来を嘱望されますが、本人の関心はそれよりも作曲の方へと向かいます。
78年にはピアノ5重奏曲のためのスケルツォを作曲し、音楽院の作曲科を卒業することになります。
マーラーは在学中に、ベートーベン、ショパン、シューベルト、シューマンのピアノ曲を演奏する事になりますが、こうした経験や、さらに作曲科の学生として指揮の経験を積んだ事が大きな影響を及ぼします。
またこの時期、マーラーはウィーン大学にも籍を置いており、音楽だけでなく歴史や哲学を学んでいます。マーラーは生涯を通していろいろなものに対して知的関心を持ち続けたと言われていますが、こうした事からもそれが見て取れますね。
人物②指揮者としての仕事:カッセル時代
マーラーは大学を卒業して20歳になる1880年にオーバー・エスターライヒで指揮者の仕事をはじめますが、ライバッハ州立劇場の指揮者に迎えられ、ヴェルディのトロヴァトーレで初めて指揮をします。
ドイツ音楽の伝統継承者として知られる事になるマーラーですが、指揮者としてはとにかくドイツ音楽だけでなく、沢山のイタリアオペラも指揮しているところにはぜひ注目しておきましょう。
そんなマーラーは1883年にドイツのカッセル市立劇場のオーケストラ、合唱指揮者として契約しますが、劇場の首席指揮者、ヴィルヘルム・トライバーは、マーラーに冷たく活動を厳しく制限します。
この時の指揮者としてのマーラーへの批評は、熱意が称賛され、オーバーな身振りと慣例に従わないテンポが批判されていますが、こうした批判は彼の生涯を通して聞かれる事になります。
ちなみにマーラーは伝統を引き合いに出した批判に対しては、「伝統とは自堕落のことなり」と答えています。
さて、ここカッセルでは冷たい扱いをうけたマーラーですが、ここで彼の作曲人生において重要な出来事が起きます。
彼はカッセルの歌手であるハンナ・リヒターと恋に落ちるのです。結局この恋は失恋という形で終わってしまうのですが、それが傑作「さすらう若人の歌」への作曲につながります。
この曲に関してはマーラーの人生を紹介した後でとりあげますが、その歌曲の誕生からマーラーの最初の交響曲第1番が生まれる事となっているのです。
人物③プラハ、ライプツィヒ、ブタペスト時代
そんなマーラーはその後指揮者としていろいろな職場を転々とするようになりますが、まずはプラハ、ライプツィヒ、ブタペストでの指揮者を務める事になります。
ライプツィヒでは、カール・マリア・フォン・ヴェーバーの孫である、カール・フォン・ヴェーバーと知り合い、そこでヴェーバーの未完のオペラ「3人のピント」のスケッチの完成を頼まれて、これを完成させます。そしてそれが大成功となり、このオペラがドイツ中で演奏される事になるのです。ちなみにこのオペラは今ではほとんど演奏されませんし、私も今回初めて知りました。
さて、このようにしてヴェーバーの孫と接する機会が多くなったマーラーですが、なんとその妻を愛するようになってしまいます。人妻を愛してしまったヴァーグナーは最終的にその女性を自分の妻にしてしまったわけですが、マーラーにとってこの恋は叶わぬ恋となりました。
そして、マーラーはこの叶わぬ恋のエネルギーを創作意欲に置き換えます。こうしてみると、失恋のエネルギーというのはなかなか興味深いですね。世の中には失恋をテーマにした物語や、詩、音楽が沢山あります。
そしてこの頃マーラーは重要な音楽家と出会います。一人がチャイコフスキー、そしてもう一人がリヒャルト・シュトラウスでした。後にシュトラウスとマーラーは深い友情で結ばれる事になります。
ライプツィヒからブダペストへと職場を移したマーラーですが、そこで不幸が重なってしまいます。父のベルンハルトが1882年に亡くなると、それに続いて病に倒れた母、そして妹のレオポルティーネが亡くなってしまうのです。
さらに、新天地ブダペストでは歌手のレベルが低く、さらにマーラーのレパートリーが聴衆の好みに合わないなど、マーラーは仕事面でも苦労しますが、ここで演奏したドン・ジョヴァンニを聴いたブラームスはその演奏に感激し、その数年後、ウィーンにマーラーを推薦するようになるという出会いもありました。
人物⑤ハンブルクからウィーン時代
ブタペストから職場を北ドイツのハンブルクに移したマーラーに待っていたのは、過密な日程でした。
とにかくハンブルクでは公演数が多く、多い時では一か月の公演数がなんと19回にも及びました。マーラーはこのような忙しい生活を4年も続けますが、そうした忙しさにも関わらず、交響曲第2番や第3番を作曲します。
そして1895年、またしても悲劇がマーラーを襲います。今度は音楽家として将来を嘱望されていた弟のオットーがウィーンで自殺してしまうのです・・。
そんなマーラーは当時不振にあえいでいたウィーン宮廷劇場の指揮者の仕事を得ることになります。
マーラーはそこですぐにヴァーグナーとモーツァルトの優れた指揮者として名声を獲得し、97年の10月には音楽監督に就任します。
さらに翌年にはウィーンフィルの指揮者にも就任しますが、権威主義的な態度と独創的な考え方のために楽団員との関係は気まずくなり、結局ウィーンフィルは辞職する事になります。
ウィーン時代の重要な出来事と言えば、アルマ・シンドラーという女性と恋に落ちた事です。
アルマは非常に知的な女性で、作曲をツェムリンスキーの下で学んでいました。しかしマーラーは結婚後、アルマに作曲をあきらめるように強要します。このような事から二人の関係は難しいものになり、数年後にマーラーはフロイトに診断を依頼したりもするようになります。
さて、ツェムリンスキーの名前がでてきましたが、ウィーン時代のマーラーはすでに当時の音楽家の間では、大音楽家とみなされるようになってきました。彼の周りには若い作曲家たちが集まってサークルを結成し、次第に大きくなっていくのです。
そのサークルの中には、後に活躍するシェーンベルクやベルク、ヴェ―ベルン、ツェムリンスキーなどがいました。
マーラーは彼らにとって単に大芸術家というだけでなく、彼らがウィーンで活躍するためのアドバイスをし、さらにツェムリンスキーとシェーンベルクには物質的な援助もしています。
彼はウィーン時代に交響曲第5番などを完成させますが、次第にウィーンの反ユダヤ系の新聞がマーラー排斥運動をするようになります。
こんなことからウィーンを去る決心をしたマーラーは、1907年にニューヨークのメトロポリタンオペラと契約を交わすことになります。
しかし、そんなマーラーをさらなる悲劇が襲います。なんと愛する長女のマリアが亡くなったのです。マーラーは悲しみで気が狂いそうになりましたが、さらにそれに加えて自身の心臓病も発覚します。そのためマーラーは気分転換としてお気に入りだった水泳やサイクリング、散歩をあきらめなければならなくなってしまったのです。
人物⑥ ニューヨーク時代
マーラーの身の回りに起こったこのような出来事はマーラーを深く傷つけました。そしてそれはマーラーの仕事ぶりにも影響を与えました。
マーラーが契約したメトロポリタン歌劇場は、大スター達が出演しており、それこそが歌劇場の最大の目玉でした。これまでのマーラーだったら、大歌手中心ではなく、あくまでアンサンブルの演奏の質にこだわった所でしょうが、マーラーはそのスタイルを変えようとはしませんでした。
さらにヴァーグナーの作品のカットにも同意するようになります。
マーラーは娘をなくした年に、大地の歌を発表しますが、この曲にはシューベルトやベートーベンの最後の交響曲となった9番という番号を付けませんでした。
1909年には交響曲第9番を完成させますが、マーラーはその2年後、細菌性の感染症にかかり、51歳を目前にウィーンで亡くなる事になります。
マーラーの音楽とその魅力
Youtubeの動画ではこの続き、マーラーの傑作「さすらう若人の歌」、「交響曲第1番」、それからマーラーの音楽の魅力についても話していますので、興味のある方はぜひ動画のほうもご覧ください!