みなさん、こんにちは。
今日は大作曲家ブラームスの魅力を取り上げます。
ブラームスはドイツに生まれた作曲家になりますが、3大Bとも呼ばれ、バッハ、ベートーベンと並ぶ大作曲家としても知られています。
そんなブラームスは、19世紀、ヴァーグナーやリストなどが大活躍するロマン派という時代真っただ中に生きた作曲でしたが、彼が目指した音楽というのは、その時代の作曲家達とはまったく違ったものでした。
今回もブラームスの生涯から名曲、そして音楽の魅力までを紹介したいと思います。
もくじ
ブラームスってどんな人物?
人物①ドイツ・ハンブルク生まれ(子供時代)

ヨハネス・ブラームスは、ドイツのハンブルクで1833年にコントラバス奏者を務める父ヨハンヤーコプの子供として生まれました。
ヨハネスは最初の音楽的な手ほどきをこのお父さんから受けたとされていますが、7歳の時にハンブルクでかなり有名だったピアノ教師のオットー・コッセルに師事しています。
それ以来ブラームスはピアノの腕前をめきめきと上げますが、なんと10歳の時に公開演奏会に出演すると、それを見ていたアメリカの興行師が天才少年としてアメリカに連れていこうとします。
しかしコッセル先生は賢かったので、これを止めています。さらにコッセル先生はブラームスが作曲したがっている事にも気づいて自分の先生エドゥアルト・マルクセンを紹介する事にしました。
ブラームスの両親の収入というのはささやかなだったので、ブラームスはこの頃から父が所属していた楽団の作曲家兼編曲家として編曲する実戦経験を積むことになりますが、これがブラームスの成長に大きな影響を与えました。
そして、このような頃ヨーロッパでは大きな出来事が起きます。オーストリアとロシアの軍隊がハンガリーに樹立された独立政権を打倒したのです。そのため独立運動に参加していた人たちが、アメリカに亡命するために大勢ハンブルクまでやって来ました。ハンブルクというのは今も昔も大きな港街として栄えています。
そのため当時のハンブルクではハンガリー的な音楽が大流行する事になります。ブラームスはここでレメーニというハンガリーの有名なヴァイオリニストと知り合い、才能を認められて伴奏を務めるようになります。

この出会いによりブラームスはハンガリー的な音楽を沢山吸収することになり、これが「ゆびさきつんつるいん」なんかのCMでもおなじみなハンガリー舞曲誕生の音楽的な土台になります。
人物②シューマンとの出会い(青年時代)からクララへの愛
さて、そのようにして音楽的成長を果たしたブラームスは20歳の時にデュッセルドルフに20歳年上の大作曲家シューマンを訪ねます。

ブラームスはシューマンの前でピアノソナタハ長調を演奏したとされていますが、シューマンはブラームスの作品と卓越したピアノ演奏に深い感銘を受けて、「音楽のための新しい雑誌」に「新しい道」と題してこのシューマンを絶賛したのです。
ブラームスはこれを喜んだものの、ある種の義務感を覚えさせられて、それが重荷となってハンブルクに帰ってしまいます。
しかしその次の年、シューマンがライン川に投身自殺を企てた事を聞くと、急いでデュッセルドルフに向かい、シューマンの家族を助ける事になります。そしてなんとブラームスはシューマンが亡くなった後で、その妻であるクララに恋をしてしまいます。
シューマンが亡くなった翌年には、その愛をクララに告白したとされていますが、ブラームスはとにかくシューマンを尊敬していたためか、それ以上の行動に出ることはありませんでした。
この辺のブラームスの性格というのが彼の晩年の音楽に良く表れています。

人物③リスト、ヴァーグナーの音楽との決別
ブラームスは26歳になる年にハンブルクに落ち着き、そこで女声合唱団を設立し、合唱曲や民謡曲の実戦経験を得る事になります。さらにこの頃ピアノ協奏曲ニ短調も完成させています。
この時期の興味深い出来事と言えば、当時ドイツで勢いを得ていたフランツ・リスト、それからリヒャルト・ヴァーグナーなどの作曲家と袂を分かった事です。リストはかつての交響曲に対して、交響詩というジャンルを開拓したり、ヴァーグナーは自身のオペラをムジーク・ドラマ[楽劇]と題するなど、新たな音楽の動きを作りだした作曲家になります。しかし、ブラームスはそれに対してはっきりと反対の意志を示したのです。
ブラームスが目指していた音楽と言うのは、そのような物ではなく、ベートーベンが作り上げたような古典的な音楽でした。
でもリストもヴァーグナーもブラームスを優れた音楽家だと評価していただけに、こうした態度には憤慨します。
ブラームスはこの後でウィーンに拠点を移しますが、そこで実際にヴァーグナーと会う事になります。しかしブラームスの才能が自分のオペラの分野を脅かす事になるかもしれないと見たヴァーグナーはブラームスの「指揮について」という論文で大いに攻撃する事になります。これによってヴァーグナーはブラームスとの間に修復不可能な溝を作ってしまいました。

この後で、ヨーロッパの音楽界は、ヴァーグナー派とブラームス派に分かれる事になります。
人物⑤ウィーン
さて、拠点をウィーンに移したブラームスですが、ブラームスは最初は合唱団やオーケストラの指揮者として仕事をするようになります。
しかし当時は指揮者という仕事が独立した職業として成立しようとしていた時期だっただけに、ただ作曲できるだけで、指揮をするのは不十分だった。
そんなわけでブラームスは指揮者としての限界をいち早く察知し、その楽団の指揮者の仕事からは身を引くようになります。それ以降は自分の作品の指揮はしていますが、より作曲に専念して「ドイツ・レクイエム」などを発表し、徐々に名声を高めていき、さらに出版の印税だけでも安定した生活が送れるようになります。
この後、ブラームスは、43歳になる年に20年の時を経て自身初の交響曲を完成させると、そこからピアノ曲や歌曲など、多くの作品を生み出します。
ちなみの彼の交響曲が作品68となっていますが、この交響曲ができたのは1876年の事になります。彼は1897年に亡くなりますから、43歳から63歳の間に交響曲4曲を含む傑作を生みだした事になります。
モーツァルトやシューベルトは30歳という若さで亡くなりましたが、ブラームスの音楽的な才能は40を過ぎてさらにその深みを増していったという点はなかなか興味深いですね。
人物⑥内気で孤独なブラームス

このようにして年を取るとともに深みを増していったブラームスですが、その性格は非常に内気であった事で知られています。彼はとにかく自分の内面を人前でさらす事を嫌っていました。
ブラームスがクララを愛しながらも行動に移すことができなかったのは、もちろんシューマンに対する尊敬もありますが、このような性格があった事は間違いないでしょう。
実際にクララ・シューマンはブラームスの事を「彼は25年前と同じくらい不可解な人物です。見知らぬ人と言っても良い程です。」と語っています。
こうしたブラームスは自分の人生が終わるにあたって、自筆楽譜やノートの類をことごとく破棄してしまいました。これもやはり内面を見られる事を嫌った上での行動だと見る事が出来るでしょう。
またこのブラームスは、基本的には控えめな性格でしたが、常にどんなグループにおいても中心的な存在でした。そこでは自分とは相いれない意見で、自分の思考を中断させるような人物を入れることは決してなかったので、ブラームスの周りに集まった人は、彼の意見に従わざるを得ないという一面もありました。
基本的には、ブラームスは穏やかな性格ではありましたが、常に自分の世界観というものを持っていた人物でした。
このようなブラームスは63歳でこの世を去る事になりました。
音楽の魅力
ブラームスのおすすめの名曲、音楽の魅力については動画の中で解説していますので、興味のある方はぜひそちらもご覧ください!