みなさん、こんにちは。車田和寿です。
今回の作曲家紹介ではロシアの大作曲家チャイコフスキーを取り上げます。
チャイコフスキーと言えば、「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」などのバレエ音楽を作曲した事で有名ですが、チャイコフスキーには、彼自身が「抒情的楽想」と呼んだ、美しいメロディーを作り出す天賦の才がありました。
しかし同性愛者でもあったチャイコフスキーの人生は19世紀という時代において、決して簡単なものではありませんでした。そんな事もあり、チャイコフスキーは53歳で謎の死を遂げる事になります。今回はそのチャイコフスキーの生涯と名曲。そしてその音楽の魅力を一緒に見ていきましょう。
もくじ
少年から青年時代
チャイコフスキーは1840年に鉱山所長を務めていたイリヤ・ペトロ―ヴィチの次男として生まれました。母のアレクサンドラ・アンドレーエヴナはフランス系移民(ミシェル・ダシエの)孫となっていますが、こんな母親のルーツがチャイコフスキーがフランス音楽に惹かれた事と関係しているとも言われています。
このお母さんのアレクサンドラの祖父は癲癇症であり、母親自身も神経質な気質だったことが知られていますが、チャイコフスキーはこの母親から病的なまでに強い感受性を受け継ぎました。
そしてチャイコフスキーはなんとモーツァルトと同じ4歳の時に作曲して、父イリヤを喜ばせます。イリヤは大喜びで、「サーシャ(妹)とピョートルがペテルブルクにいるママという歌を作曲したぞ」と妻につたえています。
その翌年からピアノを習い始めたチャイコフスキーはすぐに先生の能力を追い越してしまいます。5歳で先生を追い越すというのは、かなりの天才ぶりでしょう。
それからチャイコフスキーは家にあったオルケストリオンという手回しオルガンのような楽器でモーツァルトのドン・ジョヴァンニなどの作品を聴いて、そこから大きな影響を受けました。
そしてチャイコフスキーの才能は音楽だけではありませんでした。4歳のころからフランス人家庭教師から強い影響を受けてフランス語で詩を書き始め、さらにはドイツ語も勉強し始めます。
しかしチャイコフスキーはここですぐに音楽家になる道を進まずに法律学校に進みます。そして彼はそこで過ごした9年間で自分の同性愛に目覚めます。おそらく男子校だったのではないかと思われますが、学校では同性愛的な行為というのは割と普通にあったようです。
チャイコフスキーが14歳の時に、母親が他界してしまいます。この時からチャイコフスキーは救いを求めて音楽に深くのめりこんでいくようになります。19歳になる1859年には法律学校を卒業して、法務省の事務官として社会人になります。父親には息子の勉強を支援する経済力がなかったために、チャイコフスキーの職業音楽家になりたいという願望は棚上げされることになりました。
しかしその約4年後の1863年、法務省を辞職して、音楽院に正規の学生として入学する事になります。
生活こそは貧しかったものの、チャイコフスキーは音楽に専念する第1歩を踏み出し、非常に満足感のある人生を送る事になります。
円熟期に向かって
チャイコフスキーは、音楽院でアントン・ルビンシュテインという作曲家の下で勉強し、これから作曲家として円熟期へと向かっていく事になります。
1866年にはモスクワのロシア音楽協会から和声楽の講師のオファーをもらい、モスクワに移る事になります。
その後も彼はルビンシュテインの下でいろいろな曲を作っていきますが、このルビンシュテインがなかなか厳しい人でした。チャイコフスキーは《演奏会用序曲》を作曲したり、過労で倒れる寸前になりながら《交響曲第1番》を作曲しますが、どれもルビンシュテインに酷評されます。
そして、この頃彼はロシア5人組の一人、バラキレフと出会います。ロシア五人組と言えば、バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー・コルサコフの5人の作曲家達の事を指しますが、この5人に共通する理念は、反西欧、反プロフェッショナリズム、それから反アカデミズムになります。
この5人は、ロシア民族的な音楽を目指し、国内外で大きな影響を与える事になりますが、チャイコフスキーはバラキレフの批評の影響力の大きさを認識しており、グループに受け入れられる事を望んでいたのです。
チャイコフスキーは音楽院で西洋音楽の教育を受けた作曲家ですから、この5人とは大きく異なっていますが、この交流によってチャイコフスキーの音楽の中にもロシアの民族音楽というものが入っていく事になります。
この頃には弦楽四重奏曲第1番やゲーテの詩に作曲した歌曲「ただ憧れを知る者だけが」を完成させます。
また交響曲第2番ではウクライナ民謡を引用し、「小ロシア」という名前も付けられました。この交響曲の完成には友人達も狂喜します。特に最終楽章では3つの民謡が使われています。
困難の時代
そんなチャイコフスキーも30代になると、困難の時代に突入します。
まずは今では傑作として知られているピアノ協奏曲第1番を作曲しますが、これがまたしてもルビンシュテイン「作曲が下手で演奏不可能」と酷評されてしまいます。
そこでチャイコフスキーはこれをドイツの大指揮者ハンス・フォン・ビューローに献呈しますが、彼によってこの曲は大成功となり、後にルビンシュテインもこの曲の素晴らしさを認める事になりました。
ちなみにこのハンス・フォン・ビューローという指揮者は、ヴァーグナーに妻のコジマを寝取られてしまったわけですが、その後彼はブラームス派になった事で知られています。ブラームスの交響曲第1番をベートーベンの交響曲第10番だ、と評したのもこのハンス・フォン・ビューローです。
また30代半ばのチャイコフスキーはさらに《白鳥の湖》など現在でも有名な曲を作曲します。しかしこの頃から彼の精神状態というのは中々大変なものになっていくのです。
その背景にあるのは彼の同性愛というものでした。彼は自分が同性愛者である事を自己嫌悪していましたが、そうした異常を疑う世間の目から感じる恥辱から逃れるために、結婚を決意するのです。
相手があっての結婚ではありません。同性愛を隠すための結婚です。彼はこれを決意してから1年以内に結婚する事になります。
結婚と危機
チャイコフスキーは1877年、交響曲第4番の作曲に取り組んでいましたが、その頃アントニーナ・ミリョコーヴァという女性からラブ・レターを受け取ります。しかもそれがなかなか激しくて、何度も手紙を受け取るのですが、しまいには会ってくれなければ自殺すると言うまでになるのです。
チャイコフスキーは6月1日に彼女の下を訪れ、愛する事はできないと告げました。本来ならばこれで終わってしまうはずでした。しかしチャイコフスキーはちょうどその頃オペラ《エフゲニー・オネーギン》の脚本作りに取り組んでいました。エフゲニー・オネーギンはプーシキンの書いた小説になりますが、その話の中ではタティアナという女性が、オネーギンにこっぴどく振られられてしまうのです。
その場面が頭にあったチャイコフスキーは、アントニーナをタティアナとなぞられて可哀そうだと思ったのか知りません。彼はいきなり考えを変えて、会ってから1週間もしないで結婚を決意するのです。
彼は会って約6週間後となる7月18日にアントニーナと結婚しますが、それが不幸の始まりでした。
やはり彼には普通の結婚生活は耐えられなかった。なので彼は療養すると偽って妻から逃げ出す事になりました。結局彼はこうした緊張に耐えられず、自殺を試みるまでになります。これが失敗に終わり、サンクト・ペテルブルクまで逃げ出しますが、この時の彼は完全に神経衰弱になっており、さらに発狂してしまう危険性があるために、生活環境を変えるようにと医者から助言される事になります。
この頃に作曲された交響曲第4番とオペラ《エフゲニー・オネーギン》はどちらも傑作ですが、高まった感情を示す誇張された表現は、完全に肉体関係には行きつく事ができないはやる気持ちのははけ口とみられています。ぜひ聴いてみてください!
創作意欲の低下から回復
こうした精神的な苦労からチャイコフスキーの創作意欲というのはいっきに落ちていきますが、その背景には、妻のアントニーナとのトラブルにありました。彼女はチャイコフスキーと会うために自殺するとまで言った人物ですから、そう簡単には引き下がりません。離婚を受け入れたかと思えば、取り下げたり、しまいにはわざわざチャイコフスキーのアパートの上の階に引っ越してきたりと、問題を起こすのです。
結局はこのアントニーナに私生児がいることが発覚して離婚する根拠ができたわけですが、チャイコフスキーは自分が同性愛である事をアントニーナにばらされる事を恐れていました。
なのでチャイコフスキーは人との接触を極力避け、田舎や外国での生活をするようになります。
そんな彼も40代半ばごろになると、ようやくこうした状況から抜け出すようになります。
彼は88年ドイツなどで演奏旅行に行き、そこで指揮をして熱狂的に受け入れられます。そんな頃彼はブラームスと出会っています。
1890年にはバレエ音楽の傑作《眠れる森の美女》やオペラ《スペードの女王》を作曲するなど、創作意欲を取り戻します。
実はこの頃までチャイコフスキーはナデージダ・フォン・メックという富豪の未亡人女性から毎月援助を受けていましたが、この女性が破産したために援助が受けられなくなってしまいました。しかしチャイコフスキーは皇帝から年金を受け取れるようになっており、経済的には問題ない状態になっていました。
晩年、悲愴
それでは晩年のチャイコフスキーを見ていきましょう。晩年の彼はケンブリッジ大学の名誉音楽博士号を得るなど、作曲家として大きな成功を手にしましたが、それと反して内面的には、暗い影が大きくなっていきます。
彼がその頃作曲に取り掛かったのが、「悲愴」という名前で知られている交響曲第6番です。彼は最初この曲を「標題交響曲」として作曲しようとしました。チャイコフスキーは1892年に、「計画されている交響曲の究極の神髄は《人生》である」と語っていますが、第1楽章に、「すべての情熱、自信、活動への渇望」、第2楽章に「愛」、第3楽章に「失望」、第4楽章に「死」という標題が付けて交響曲を作曲する事を考えていたのです。
チャイコフスキーの考える人生において、愛の後に失望が来て、さらにその後に死がくる、という事はなかなか考えさせられます。
これらの構想は作曲の過程で大きく見直される事になり、標題も結局付けられる事にはなりませんでした。
このようにして誕生したのがチャイコフスキー最後の作品となった「悲愴」です。これが本当に素晴らしい作品となっていますので、ぜひ聴いてみてください。チャイコフスキーはこの作品を自分の作品の中で最も誠実な作品であるとしましたが、初演の9日後に53歳で亡くなります。
どうして彼の最後の作品が「悲愴」となってしまったのでしょうか?そして彼はどのようにして亡くなったのでしょうか?
これには二つの有力な説があります。その一つ目はニューグローブ音楽辞典にも掲載されているものですが、自殺であるというものです。
チャイコフスキーは実は貴族の甥と関係を持っていました。その貴族がそれを訴える手紙を書き、高級官吏のニコライ・ヤーコビに手紙を渡したのです。このヤーコビという人物はチャイコフキーと同じ学校で学んだ生徒でした。なので、このことが明るみに出る事で自分の出身校の名前が汚される事を恐れたのです。
そのためチャイコフスキーの同級生を6人含めた、名誉法廷が組織され、そこでチャイコフスキーに、自殺すべし、という判決が下されます。その二日後にチャイコフスキーはヒ素毒の中毒で死亡したのです。
しかし1990年頃によって、実はチャイコフスキーの死因はコレラに感染したものである、という論文が様々な検証と共に現れました。これはソビエトが崩壊して情報公開が進み、研究が進んだ事と関係しています。
自殺説を主張する人たちはコレラ説に真っ向から反対を唱えていますので、今はチャイコフスキーの死の原因は完全に割れていますが、資料の客観性においてはコレラ説が優位に立っています。
仮にコレラ説だったとしても、自殺すべしという判決自体がなかったという事にはならないので、それを考えるとチャイコフスキーというのは、大きな才能がありながら、非常に悲しい人生を歩んだという事になりますね。
チャイコフスキーの魅力
さて、今回はチャイコフスキーの生涯を見てきました。
チャイコフスキーの魅力については、YouTube動画の中で解説していますので、興味のある方はぜひそちらの動画の方もご覧下さい!