こんにちは。
今回はシューベルトの歌曲「魔王」に関するお話です。「魔王」は中学校の音楽の教材として取り上げられていることもあり、私たち日本人にとってはとりわけ有名な歌曲となっていますね。
私も中学校1年生の授業でこの曲を初めて聴きましたが、「おとーさん、おとーさん」という子供の叫びのインパクトはいまでも覚えています。
さて、シューベルトの「魔王」の詩を書いたのはドイツの文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテになります。日本ではシューベルトの歌曲として知られている「魔王」ですが、実はドイツで「魔王」と言えばシューベルトの歌曲というよりも、むしろゲーテの作品として知られています。
最近のドイツでは残念なことに、昔と比べて詩を嗜む人が大分減ってしまっているのですが、それでもゲーテの「魔王」はドイツのギムナジウム(学校)でドイツ語の教材として扱われています。なので、今でもみんなが知っている作品となっているのです。
さて、今でも多くのドイツ人によって学ばれているゲーテの「魔王」ですが、これまでに様々な解釈が誕生しています。
今回はシューベルトの音楽はいったん脇に置いておいて、ゲーテの「魔王」にまつわる解釈をいくつか紹介したいと思います。
もくじ
ゲーテの「魔王」とは?
「魔王」はゲーテが1782年に書いたバラードになります。バラードというと、ゆったりしたポピュラー音楽を想像する人も多いか思いますが、元々は物語性のある詩の形式を表します。
「魔王」には語り手や父、子、そして魔王と複数の人物が登場し、物語が進行しますが、こうした詩がバラードという形式に分類されるというわけです。
このバラードはゲーテの作品の中で最も有名なものの一つですが、シューベルトを始め、カール・レーヴェなど様々な作曲家がこの詩に刺激されて作曲しています。
このバラードのモデルとなったのは、デンマークの「エッラーコンゲ(Ellerkonge)」という物語だとされています。エッラーコンゲと言うの言葉はドイツ語に訳すとエルフェンケーニヒ(Elfenkönig)となりますが、これはエルフの王という意味です。トールキンの「指輪物語」などにもエルフが登場しますが、エルフは超人間的な存在であり、北欧神話を始め実に様々なタイプが登場しますね。
デンマークの民間物語におけるエッラーコンゲ(エルフの王)は死の前兆として現れる、いわば死神のような存在として扱われているようです。
さてこのデンマーク発祥のエッラーコンゲという物語ですが、ドイツの哲学者であり文学者であるヨハン・ゴットフリード・ヘルダーの翻訳によってドイツで紹介されることとなりました。
しかしこの時ヘルダーはデンマーク語のEllerという言葉をエルフを意味するElfeではなく、ハンノキ属に分類される広葉樹のErle(木の種類)と間違って翻訳してしまったのです!
このようにしてドイツでErlenkönigという言葉が生まれました。Erlenkönigという誤訳によってエルフの王という本来の意味はなくなってしまいましたが、逆にErleの木が生い茂る深い森の中に潜む王様という、ちょっと怪しい雰囲気が生まれる事になりました。
怪しい雰囲気と書きましたが、グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」に登場する森のように、ドイツでは森は魔物が潜む危険な場所として認識されていたという点は頭に入れておいても良いかもしれません。
私は山頂で夕日の写真撮影に挑戦した後で真っ暗な森の中を2時間さまよった経験がありますが、ドイツの森は本当に怖いですよ・・・。木が高くて月の光も地面まで届かないので本当に真っ暗なんです・・。魔女や魔物が住むにはまさにぴったりです。
さて、このように誤訳されて伝わってしまったErlenkönigという物語ですが、ゲーテはそれに大いに着想を得て、Erlkönig(Erlenkönigの省略形)という大傑作を完成させたというわけです。
日本ではこのゲーテのErlkönigという言葉は、単に「魔王」と訳されて広まりましたが、この「魔王」のErleの森の奥深くに潜む魔物であるという感じはぜひともおさえてほしい所です。
ゲーテ「魔王」Erlkönig
ではさっそく「魔王」の詩を見ていきましょう。今回は解釈の話が中心になりますから、ここでは言葉に関する解説は省略します。とりあえず物語のストーリーを追ってみてください。以下の解説動画で私が「魔王」の歌詞を朗読していますので、ぜひお聴きください(そこから再生されます)。
「魔王」の解釈を紹介!
ErlenkönigがErleの森に潜む魔物であるという点にはすでに触れましたが、この詩に登場する「魔王」とはいったい何を表しているのでしょうか?そしてこの詩はいったい何を意味するのでしょうか?
ゲーテの詩の中ではどうしてこの親子が夜遅くに馬に乗っているのかなど明らかにされていない事がいくつもあります。そのためこれまでに様々な解釈が誕生しています。では「魔王」にまつわるいくつかの解釈を紹介しましょう。
「魔王」は死神!病気の子供が見る幻覚説!
まず、現在最も一般的に広まっているのが、「魔王」が病気でうなされている子供が見ている幻覚であるという説です。
この解釈ではゲーテの詩ではまったく触れられていませんが、病気の息子を医者の所や安全な所へ運ぶというのが前提になります。そして息子が見るものは、すべてが病の高熱による幻覚という事になります。
父親はなんとか目的地にたどり着くことには成功しましたが、結局間に合わず息子は腕の中ですでに死んでいました。
この解釈は、デンマークのエッラーコンゲが死が間近に迫っている人の所にやってくるという“死神”の解釈とも一致していますね。
おそらく日本の音楽の授業でシューベルトの「魔王」を扱う時もこの解釈が基本になっているように思います。
「魔王」は児童性的虐待の象徴説!
さて次の解釈は日本ではまだあまり知られていないかもしれませんが、ドイツでは結構広まっています。
「魔王」は児童性的虐待の象徴だとする解釈です。これに関しては多くの学術論文や新聞記事などを見ることができますが、この解釈によると、息子は魔王によって性的に虐待されたという事になります。
その解釈の根拠となる部分がいくつかありますので紹介しましょう。
その最も大きな根拠となるのが魔王のセリフですね。魔王は(おそらく)甘い声で“Du liebes Kind, Komm geh mit mir(さあかわいい坊や、私と一緒に行かないかい?)”そして“Gar schöne Spiele spiel’ ich mit dir(私と一緒に良い事して遊ぼうよ!)”と子供に近づいてきます。
これがまさに子供を性的に虐待する大人の最初の行動そのものだというわけです。
そして後の方では魔王の目的がもっとはっきりする形で現れます。魔王は息子に向かって“Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt(お前を愛しているよ。お前の肢体(からだ)を見ているとムラムラしてくるぞ)”と語り掛けるのです。
reizenという言葉には刺激するという意味がありますが、この言葉は性的な意味合いで使われる事も普通にあります。性的に刺激される=ムラムラしてくるというわけです。
子供の体を見てムラムラしてくるなんて、まさにペドフィリアを象徴しているというわけですね。
そしてとどめは“und bist du nicht willig, so brauch’ ich Gewalt!”というセリフです。“お前がそうしたくないというのならば、力づくでもそうしてやるぞ“というわけです。
このGewaltという言葉に暴力という意味がありますが、この言葉には性的な暴力も含まれています。Gewaltという言葉の仲間であるVergewaltigungという言葉はレイプという意味です。
息子はその行動に対して“Erlkönig hat mir ein Leids getan!(魔王は僕に痛い事をした!)”と言いますが、まだ何をされたのかわからない子供には“痛い事”と表現するのが精一杯です。
そしてこの解釈を根拠づける部分がもう1か所あります。それが最後の“Das Kind war tot(子供は死んだ)”という部分です。実はこの詩はすべて現在形で書かれているのですが、この部分だけ過去形が使われています。
本来であれば詩においては時制は揃えるべきものとされていますが、ゲーテは最後の部分だけ過去形にしています。なので当然これは意図的なものだろうと考えられるわけです。
では子供は死んだというのは何を表しているのでしょうか?この解釈での主張では死んだのはあくまで子供としての息子であって、息子自身が死んだわけではないというものです。
つまり性的な虐待を受けたことによって、子供ではなくなってしまったという事を暗示しているというわけです。
これがこの「魔王」児童虐待説の基本になります。この解釈では息子と魔王の関係ははっきりしています。息子は虐待を受ける被害者、そして魔王は加害者というわけです。
では父親の役割はどうでしょうか?
父親は見て見ぬふりをする大人
私は中学校の時、シューベルトの「魔王」を聞いて、この父親がやけに素っ気ないなあと感じた記憶があります。息子があんなにドラマチックに「おとーさん、おとーさん」と叫んでいるのに、それに対する父親の反応は、「なに、あれは、枯れ葉のざわめきじゃ♪」ですからね。しかも音楽もその部分が長調になってやたら暢気に感じられたものです。
さて、この児童性的虐待説における、父親の役割というのは、いわゆる見て見ぬふりをする大人とされています。家族内で父親から息子への暴力があっても、母親は自分も殴られてしまうので見て見ぬふりをせざるを得ないという話は現在の社会でも良く聞く話ですね。
この詩に出てくる父親は息子の度重なる必死の訴えにも関わらず、息子の言っていること信じずに“あれは霧の模様だ”、“枯れ葉がざわめいている。”、“古い柳の木だ。”と息子の意見をその都度否定してしまいます。
もちろんこれは息子の恐怖感を取り除くための発言だという解釈もできるでしょうが、この児童性的虐待説においては、これらの父親のセリフは見て見ぬふりをする大人の象徴とみられているのです。
私は、この見て見ぬふりをする大人という解釈の他に、虐待のサインに気が付かない大人を象徴している可能性もあると思っています。
さて、この解釈をまとめると魔王=加害者、息子=被害者、父親=見て見ぬふりをする大人という図式が出来上がります。
また児童虐待説には虐待する魔王は実は父親のもう一つの顔とする解釈も存在します。さらに息子は父親の虐待の末腕の中で絞め殺されてしまったという解釈なども存在しますが、まあ今回はこの辺までにしておきましょう。
ゲーテの他の作品にも性的暴行を暗示するものがある。
ここで、どうして児童性的虐待説が登場したのかについて触れてみようと思います。現在私たちの社会では一昔前と比べて児童性的虐待の問題が大きく取り上げられるようになりました。
こうした解釈が登場したのは、そうした社会的な影響を受けてのことなのでしょうか?
実はそうでもないのです。というのもゲーテの他の作品には児童に限らず小児性愛や性的暴行を連想されるものが複数存在し、古くからそうした解釈が指摘されているからです。
たとえばその代表例がゲーテの“野ばら”です。“野ばら”もシューベルトによって作曲されており、非常に知名度の高い作品となっていますが、この詩の中では少年と野ばらのやり取りが描かれています。
美しい野ばらを見つけた少年が“お前をへし折ってやるぞ!”と言って野ばらに近づくと、野ばらが“お前を刺してやる。”と言い返します。野ばらはその棘で少年を刺して抵抗しますが、結局少年にへし折られてしまうというのがこの詩あらすじです。
実はこの詩が表している美しい野ばらというのは少女の事だとされています。つまり少女はその抵抗もむなしく少年にレイプされてしまったというわけです。
こうした解釈はすでに19世紀にはあったとされています。これは20世紀初めにドイツで作成された絵葉書になりますが、野ばらが少女として扱われていますね。
こちらの絵葉書でも少年が少女に迫っている様子が描かれていますね。“野ばら”に関しては19世紀からこのような解釈が一般的となっていたわけです。ゲーテが何を意図していたかというのは本人に聞いてみないことにはわからないわけですが、このようなメッセージを込めた可能性は非常に高そうですね。
「魔王」が児童性的虐待を表しているとの解釈の裏には“野ばら”に代表される他のゲーテの作品があるのです。ゲーテは多くの作品において、小児性愛や性的暴行を間接的に描いているので、「魔王」もその一つだというわけですね。
おわりに:詩の解釈をシューベルトの「魔王」にそのまま持ち込んではいけない!
ドイツ歌曲においては詩の存在というのは非常に重要になります。特に演奏者にとっては詩が何を意図しているのかを理解することは欠かせません。
なので今回私たちがやってみたように、原作を様々な角度から読み込んでみる、という作業は非常に意味がある事となります。
しかしその際一つだけ注意しなければならない事があります。
それは原作の解釈をそのまま音楽に持ち込んではならないという事です。私たちは今回ゲーテの「魔王」に様々な解釈がある事を見てきましたが、自分がいかに「児童性的虐待説」が正しいと思ったからといって、それをそのままシューベルトが作曲した「魔王」に当てはめてはならないのです。
ドイツ歌曲において重要なのは、私たちがどのように原作の詩を解釈したか、という事ではなく、作曲家がどのように詩を解釈して作曲したのかを知る事となります。
そしてその手掛かりは音楽にあります。作曲家が作曲した音楽の中に、その解釈が隠されているのです。
シューベルトの「魔王」において大事なのは、シューベルトがゲーテの「魔王」をどのように解釈して、それを表現しようとしたか、という事になります。私たちは原作の様々な解釈の可能性をいったん捨てて、シューベルトの音楽を手掛かりに、「魔王」の真の姿を探していかなければならないのです。
ではシューベルトはゲーテの「魔王」をどのように読んで作曲したのでしょうか?シューベルトも「児童性的虐待」だと解釈して作曲したでしょうか?
シューベルトの「魔王」については次の機会という事にしておきましょう。興味のある方はそれまでに、シューベルトがいったいゲーテの「魔王」をどのように読んだのかぜひとも考えを巡らせてみてください。
※シューベルトが考えた魔王についてはこちらの動画で解説してあります。
Wer reitet so spät durch Nacht und Wind?
Es ist der Vater mit seinem Kind;
er hat den Knaben wohl in dem Arm,
er faßt ihn sicher, er hält ihn warm.
いったいこんな夜遅く、風の吹く中、馬を駆けさせているのは誰だろうか?
子供とその父親だ。
彼はどうやら息子を腕に抱えているようだ。
彼は息子をしっかりと、そして温かく抱きかかえているぞ。
“Mein Sohn, was birgst du so bang dein Gesicht?”
“Siehst, Vater, du den Erlkönig nicht?
Den Erlenkönig mit Kron’ und Schweif?”
“Mein Sohn, es ist ein Nebelstreif.”
“息子よ、いったい何におびえて顔を隠すのだ?“
“お父さん。そこにいる魔王が見えないの?
冠をかぶって尻尾を生やした魔王の姿が?“
“息子よ。それは霧の描く模様だよ。”
“Du liebes Kind, komm, geh mit mir!
Gar schöne Spiele spiel’ ich mit dir;
manch bunte Blumen sind an dem Strand.
Meine Mutter hat manch gülden Gewand.”
“愛らしい坊や!私と一緒に行かないかい?
それだけじゃなく一緒に楽しい遊びをしようじゃないか!
岸辺には美しく色鮮やかな花が咲いているよ。
私の母は黄金の衣装を身に着けているよ。”
“Mein Vater, mein Vater, und hörest du nicht,
was Erlenkönig mir leise verspricht?”
“Sei ruhig, bleibe ruhig, mein Kind;
in dürren Blättern säuselt der Wind.”
“お父さん!お父さん!聞こえないの?
魔王が僕にこっそり約束する事が?”
“落ち着け、まずは落ち着くんだ、息子よ。
枯れ葉が風でざわめいているんだよ。”
“Willst, feiner Knabe, du mit mir gehn?
Meine Töchter sollen dich warten schön;
meine Töchter führen den nächtlichen Reihn
und wiegen und tanzen und singen dich ein.”
“さあ、かわいい坊や!私と一緒に行かないかい?
私の娘たちがお前をもてなすだろう。
私の娘たちが夜の舞へと導き、
お前を揺すり、踊って、歌って寝かしつけてくれるだろう。”
“Mein Vater, mein Vater, und siehst du nicht dort
Erlkönigs Töchter am düstern ort?”
“Mein Sohn, mein Sohn, ich seh’ es genau:
es scheinen die alten Weiden so grau.”
“お父さん、お父さん、そこが見えないの?
そこの影に魔王の娘たちがいるのが?”
“息子よ、息子よ!私にははっきりと見えるぞ。
それはみじめな姿をした古い柳の木だ!。”
“Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt,
und bist du nicht willig, so brauch’ ich Gewal!”
“Mein Vater, mein Vater, jetzt faßt er mich an!
Erlkönig hat mir ein Leids getan!”
“お前を愛している。お前の姿を見ていると興奮してくるぞ!
でもお前がそうしたくないのならば、力づくだ!”
“お父さん、お父さん、彼が僕に触っているよ!
魔王が僕に痛いことをしたよ!”
Dem Vater graust’s; er reitet geschwind,
er hält in den Armen das ächzende Kind,
erreicht den Hof mit Müh und Not;
in seinen Armen das Kind war tot.
父親はぞっとして、馬を早く駆けさせた。
彼は呻く息子を両腕に抱え、
やっとの思いで家までたどり着いた。
彼の腕の中でその子供は死んでいた。
※日本語訳:車田和寿